今週のお題「雨あめ降れふれ」
これまたどうでもいい話なんだけど「◯◯を好きな人に悪い人はいない」的な言説はどれもこれも間違っていると思うんだ。だって猫好きにも性格悪い人はいるし犬好きももちろんそうだし音楽好き同士でも絶対に気が合わないことってある。
だいたいそんな括り方はカテゴライズとして強引すぎて無理がある。そして誰かを選別しようとするならば「悪い人はいない」なんて決めつけではなく「私はこうなんだけど」的な奥ゆかしさって必要だ。その上で他人を選別するならば嫌いな人を弾いていったほうが早い。
だからそういう言説は「私は◯◯が好きな人は苦手だな」的ニュアンスで使うのが穏当だと思うんだがどうだろうか。
そこで私なら何が当て嵌まるかを考えてみたんだがこういうのはどうだろうか。
「私は雨の音が好きな人は苦手だな」。
どうだこの梅雨の季節真っ盛りに雨音に喧嘩売っている感じ。しかし雨音というのは環境音として親しまれている鉄板レパートリーだし全然嫌な音ではないむしろ落ち着く。
だからこう言ってしまうと大抵の人が弾かれて私は江國香織とは絶対に仲良くなれないしそのファンの人から反感買ってしまったりするんだろうけど実はそれが狙いだったりする。
そもそも「雨の音が好きな人は苦手だな」と私が発言して「え、雨音とか気にしたことなかったなー」っていう人はお呼びではない。
「え、別に好きでも嫌いでもないけど」っていう人は出直してきてくれ。どうだだいぶ減っただろ。
「え、私雨音好きなんだけど」っていう人はきっといい人だ。
物静かかつ内省の心を持っていて雨音で心安らげる自然を愛する心を持った人なんだろう。前の文に心って三回書いちゃった。
しかしだからこそ私はそこを否定したい、物静かさや内省を是とする私の中の風潮を否定したい。だって私とキャラが被るじゃないか。黙ってじっとして日が暮れるまでぼーっとするのは私の役割にしておいてくれないかみんながそうだったら日本経済回らなくなって私が困る。
同族嫌悪と言うなかれ、これはあれだ思春期になった女の子が父親を臭いと感じるように自分に近い遺伝子を持った人に惹かれないようにする生物の生存本能の一種だ。
私は私がぐうたらであるからこそ周辺の人間は勤勉であってもらわねば困るしキャラが被ると存在意義を疑ってしまう。
私って何のために生まれてきたんだろうとかいうことは一ミリたりとも考えたくない。何が幸せなのかを探求するのはアンパンマンに全部任せておきたい。アンパンマンに任せておけばそれはもう絶対に安心だ彼が何でも見つけてきてくれる。
だから私は私に似ている人を排除する卑劣な手段をもって自らユニークな存在であろうとしているんだがどうだろうか。
そうやってずっと私の存在を際立たせようと目論んでいるんだがどうにもこうにもうまくいかないよ。
雨音はいい音だし心やすらぐよそれを嫌うことなんてできるんだろうか。凡庸な自分を綺麗さっぱり消してしまいたいのだけど全然うまくいかない、ねえそれでも君は私のために「雨音なんて嫌いだ」と言ってくれるか。
二人だけで雨音を嫌う国を作って最初の統治者になって私を側近にしてくれるだろうかなんならペットでもいいんだ。君さえそう言ってくれれば私はもう他に何もいらないのだが。
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