きまやのきまま屋

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私は家に帰りたい【短編】

短編小説の集い

第0回に参加させていただいて、それっきりになっていた『短編小説の集い「のべらっくす」』。三人称とかテーマとか、私には少し難しくて…。

novelcluster.hatenablog.jp

 
今回、久しぶりに参加させていただきます!
 
 
私は家に帰りたい 

隣県まで車を走らせ、彼氏と温泉に向かっている車中、黙々と運転する彼氏の横顔を見ながら、深雪が考えるのは夫のことだ。

出張の多い夫は今週末も家には帰らない。僕が毎週いないと寂しいだろうから友達と旅行して構わないよ、と言った夫の言葉に従っているのか、彼氏とのお泊りデートを能動的に楽しんでいるのか、深雪は自分で自分のやっていることの意味が、それにまつわる感情がよく分からない。
 
それでも温泉は好きだし遠出のドライブは楽しい。そして留守番の一人の夜は淋しい。結局私は欲望のままに生きているだけなのかもしれない。わがままな女だ。
 
それならそれでいい、と深雪はぼんやりとした決断を下して、今はとりあえず彼氏の運転する車内にいる。
 
 
車窓の外は薄曇り。彼氏は年下で優しく、夫は私には手伝えない好きな仕事を遠い土地で頑張っている。彼氏との旅費は深雪が払い、温泉好きな深雪のために彼氏が付き合ってくれる形になる。あんまりたくさんお金を払わせるのは悪いから、と恐縮する彼氏は、豪華さを求めず小さめの安宿で二人でくつろぐのが目的らしい。
 
良いバランスだ、と思う。理想的すぎて怖いくらいだ。倫理的なことに目をつぶれば。
 
 
「晴れるといいね。露天風呂、雨だと寒い」
彼氏は言う。
「雨の露天風呂、嫌いじゃないよ。頭を冷やせてちょうどいい」
深雪は答える。
「…頭を冷やすって、…どういう意味?」
彼氏は訝る。
「不倫旅行、やっぱり駄目?俺、浮かれすぎ?」
「そうじゃないよ。長く浸かってものぼせなくていいなってだけ」
注意深くあらねばならない、と深雪は本能的に察した。どうやら旅行に関しては、彼氏の方がナーバスになっているようだ。
「あ、そういうことか」
彼氏はそれ以上追求してはこなかった。けれど、さっきまで感じていた心地よさが車内から霧散してしまったことをおぼろげに感じる。
「あとどれくらいで着きそう?」
深雪は話題を変える。
「雨さえ降らなければ、一時間くらい」
彼氏は道に迷わないので、こういう予測はだいたい当たる。夫の場合は自己申告の所要時間プラス30分は覚悟しないとね、と深雪の思考はまた夫に戻る。
 
 
優しくてナーバスになりがちな彼氏のことは好きだけど、彼氏と一緒にいても「夫の不在時に夫のことを考える」癖はやめられない。
 
 
また車窓の外を見る。天気は曇りだが峠を越えるコースを走っているので、緑が多くて目にも涼しい。
深雪はふと、自分でも運転してみたくなる。彼氏の車は数回運転したことがあって慣れているし、普段は駅までなど都会を走っているため、こういうのどかな山道なら安全に走ることができそうだと思う。
 
薄暗い緑の曇り模様の中、私が運転しても彼氏が言うように日暮れまでに宿にたどり着けるだろうか?それとも私は夫のように、知らない土地で勝手が分からずスムーズに走ることができなくなるだろうか?それを知りたい、と深雪は思った。
 
 
彼氏に運転交代を申し入れると意外そうな顔をされたが、ナビに目的地を入れてあることもあって抵抗なく交代してくれ、それが深雪を少なからずワクワクさせる。
 
彼氏が運転席から外へ出て、深雪は助手席から運転席へ体を滑らせる。シフトバーのないコンパクトカーは、夫の乗るセダンより車内で動きやすい。
 
助手席のドアから乗り込んだ彼氏は
「外、もうすぐ雨が降りそうな匂いがする」
と言った。

※※※ 
 
峠と言うには緩やかなカーブと傾斜が続き、深雪は久しぶりの運転を楽しみ始める。
「全然知らない道だろうけど、大丈夫そうだ」
彼氏はそう言ってくつろいだ表情を見せた。
「人は歩いてないし、ゆっくり行くから大丈夫。ちゃんとナビ通り走るから、寝てていいよ」
深雪がそう言うと彼氏はにっこりした。年下のはずなのに、どこか老成した疲れた表情で。
 
 
少し経つと彼氏の穏やかな寝息が聞こえて来た。隣で安心して眠るこの人のことを私は好ましく思っている、と深雪は自分の中で再確認する。不倫の関係なのに穏やかでいられるのは、この彼氏の人柄のおかげだろう。求めすぎず声を荒げずこちらを尊重してくれる、理想的な彼氏だ。私に夫さえいなければ。そして私が、いつも夫のことばかり考えていなければ。
 
 
そして同じように夫にも特に不満はないのだ。ただ、やりたいようにやっていたらこうなっていて、世間には顔向けできない旅行をしたいと思ってしまい、夫のことを裏切りながら、楽しませてあげたい彼氏のことさえ疲れさせている。
 
私は何をしているのだろう、と深雪は混乱する。けれどそれは慣れた混乱で、もはや親しい。運転しながら飼い慣らすことのできる程度である。楽しくはないけれど。
 
 
しばらく沈黙の中走っていたその時、車の前を影が駆け抜ける。
深雪は慌てて思い切りブレーキを踏む。寝ている彼氏の頭ががくんと前のめりになり、深雪と共にシートベルトで肩が激しく抑えられる。
何かが車に当たる衝撃と、激しいブレーキの音。操作不能になるのが怖くてハンドルは切らなかった。だからスピードは落とせても、ぶつかることは避けられなかった。
「どうした!?」
彼氏は焦った声を出すが、そこまでの切迫感はない。衝撃の大きさが、相手は人ではないことを告げていたから。
「…動物、だよね。野生かな」
彼氏はそう言うと、確かめるために外に出て行く。深雪は何も答えられず、ブレーキを固く踏みしめハンドルを強く握ったまま瞬きを忘れて目を見開いている。
 
 
動物。
 
彼氏が車からすぐそこの地面を確認し、戻って来て言う。
「あのさ…犬だった。ちょっと小さめの」
 
犬。
 
私は犬を轢いたのだ、と深雪はショックを受ける。声が震えることを抑えられずに問う。
「…死んだの?」
「いや、そんなに出血はないしまだ息はあるけど…外からは分からないだけで、車にぶつかった衝撃を考えたら…助からないかもしれないね」
深雪からは、彼氏はだいぶ冷静に見えた。助からないと言われて深雪は、衝動的に車から降りてしまう。犬の死体なんて見たくはない。酷い怪我だって見たくはない。飛び出してきたのは犬の方だ。
けれど轢いたのは間違いなく深雪なのだ。
 
 
彼氏の言うように犬には目立った外傷はなく、ただぐったり寝そべっているように見えた。スピードを緩めたから、遠くに飛ばされたわけでもない。痛みに声を上げることもなく、ただじっと寝そべって弱い息を吐いている。けれど、より近づいた時に深雪は初めて大声で悲鳴をあげた。少しだが、犬は口から血を流していた。
 
「衝撃を考えたら助からない」という彼氏の台詞が頭を駆け巡る。「そんなに出血はない」というのは、一方で確かに出血しているということだ。そんなのはただの耳障りのいい言葉だ。内臓に何かダメージがあったかもしれない。この犬は死ぬのかもしれない、私のせいで。
 
 
「深雪のせいじゃないよ」
思考を読んだかのように彼氏が言う。
「何か理由があったのかもしれないけど飛び出して来ちゃったんだし、俺が運転していても避けられなかったと思う」
慰めてくれている口調の中に、だから早く行ってしまおう、という意思の気配を感じて深雪は驚く。
驚きが顔に出たのか、彼氏は気まずそうな顔になりながら
「とりあえず脇に寄せておこう」と、犬に触ろうとする。その姿はとても、とても嫌そうに見えた。
 
 
「触らないで」
深雪の声は小さかった。彼氏には聞こえない。もう一度言う。
「触らないで!」
彼氏は驚いて手を止める。深雪は這いつくばり犬に近づき、その体を抱き寄せた。彼氏は驚愕で目を見開く。
「病院に連れて行きたい」
深雪はそう言ってみた。心地よくあつらえた車内が血で汚れることをこの人は嫌がる、と分かっていながら。
「病院なんてどこにあるか分からないよ…」
彼氏が力なく呟く。
「あまり動かすと苦しむかもしれないし、また轢かれないように草むらに置いてあげたらいいよ」
「でもそれじゃ、見捨てることになる!」
深雪は絶叫した。
 
 
言葉に詰まった彼氏をよそに、深雪は犬を抱えて立ち上がる。ぐったりとしたその体は見た目より重い。そして熱い。
彼氏が「あと一時間」と言ってから30分ほど車で走ってきた。それなら峠を降りて町に出るには、走ってどれくらいかかるだろう?知らない土地で病院を見つけられるだろうか?
深雪は走り出す。肩が犬の吐く血で濡れていく。
 
この犬を病院に連れて行かないと私は死ぬまで後悔するだろう、という確信があった。それはいつもの深雪のわがままでもぼんやりでもなく、強い確信だった。
 
 
走り出した深雪を、ついに降り出した雨が濡らしていく。犬の体を庇いながら雨に濡れ、舗装されたアスファルトをどんどん進んで行く。
走っている深雪を支配していたのはいつのまにか、犬を轢いた罪悪感でもなく、犬を助けたいという強い気持ちでもなく、ただ「家に帰りたい」ということだった。
 
けれど深雪が求めていたのは夫がいないあの家でも、よく遊びに行く彼氏の部屋でも、昔両親と住んでいた実家でもない。それなのに深雪は「家に帰りたい」とだけ念じながら一心に走り続けた。
 
 
ずっと気がついていなかったけれど、私には家がなかったんだ。温泉に行きたいとか遠出のドライブがしたいとか、それは代償行為でしかなかった。今やっと分かった。私はただいつも家に帰りたかった。どこだか分からない、あるのかも分からない私の家に。
帰る家もないのに何が結婚だ、何が不倫だ、何が理想だ。すべてが馬鹿げていた。
そしてきっと、この犬にも家がないんだ。安らげる場所、無条件で受け入れてくれる場所、何の留保もなく愛される場所が、私にもこの犬にもなかったんだ。
それはどこにあるんだろう。私はそこに帰りたい。心の底から、帰りたい。でもそれがどこにあるのか分からない。
 
 
雨はどんどん激しくなり、全身がずぶ濡れになって冷え犬の体の温かさだけが肌に感じられるようになるまで、どれくらいの時間が経っただろう。どれくらいの距離を走っただろう。
ほんの数分かもしれない、ほんの数メートルなのかもしれない。
後ろから、彼氏の車が追いかけてくる音が聞こえた。
 
けれど深雪は振り返らなかった。すぐに追いつかれるだろうけど、それでも待つようなことはしなかった。
彼氏を嫌いになったわけでもなく、夫のことを忘れたわけでもなかった。
 
 
ただ、この犬と一緒に家に帰りたい、それだけの思いで深雪は峠道を走り続ける。帰りたい、帰るんだ。それだけを考えながら深雪は、雨に濡れながら知らない町に向かって走り続ける。

 

 

とにかくうちに帰ります

とにかくうちに帰ります

 

【前回の参加作品】 

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