宮沢賢治がオノマトペによって詩の印象を深めていることを検証し、実際にどのようなオノマトペをどう用いて心情を伝達しているのか確かめる。
形容詞を「ずらす」
まずは形容詞の話。とは言っても中心はオノマトペの話。両者の違いは
オノマトペ(擬声語)は、物事の状態をそれらしい音として字句に表現している。このため、一般の形容詞以上に直接的、感覚的な表現である。
オノマトペと形容詞による気分や意図の伝達 土田 昌司 (明星大学人文学部)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/cogpsy/2012/0/2012_136/_pdf/-char/ja
宮沢賢治に特徴的にみられる形容詞(オノマトペ)の使い方として「ずらす」というものがある。
「鳥がぎらぎら啼いている」…つぐみの声の描写。一般的にはチチチ、ピピピなど表されるものなので、違和感を与える。森の気味悪さを深める作用がある。
(春と修羅 第二集)
「天の川はまたぼんやりと爆発する」…星の輝きは爆発であり、するどいものだ。それを「ぼんやり」と描写することで、柔らかさや優しさを感じることができる。
(春と修羅 第二集)
「耳がちよきんと立つて」…犬の耳の描写。生き物に向けるべき形容詞ではないが、まっすぐさが伝わり感じる可愛さが増す。
(生前発表詩篇)
このように、本来の印象通りの使い方をしない、または、良いものにあえて好ましくない濁音始まりの形容詞をあてることを「形容詞をずらす」ことだと考えていく。
詩にこのような「ずらし」があると、読者がそこに感情的なひっかかりを覚え、詩情の始まるきっかけになる。
また、独特な形容詞、オノマトペの使い方は文体の個性にもなる。
『永訣の朝』
私が注目したのは、有名な詩『永訣の朝』に出てくる「びちょびちょ」というオノマトペだ。
「永訣の朝」
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(※あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨(いんざん)な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(※Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(※うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率(とそつ)の天の食(じき)に変(かは)つて
やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
註 ※あめゆきとつてきてください
※あたしはあたしでひとりいきます
※またひとにうまれてくるときは こんなにじぶんのことばかりで くるしまないやうにうまれてきます
一つだけ使われ、二回出てくる。「びちょびちょ」。
ここでみぞれに対する形容として使われる「びちょびちょ」は、そのみぞれが水分を多く含んでいることや、あまりきれいではないように感じさせるオノマトペである。
そもそも「びちょびちょ」というオノマトペは、あまり詩には使われないものだと感じられる。詩的さがなく、濁音始まりで印象が悪い。だから、あえて詩的ではないオノマトペを用いることで、感情的なひっかかりを作っている印象がある。
伝達される内容を見てみよう。最初の用例は、「みぞれはびちょびちょふってくる」。
うすあかくいつそう陰惨(いんざん)な雲から
みぞれはびちょびちょふつてくる
二度目は「みぞれはびちょびちょ沈んでくる」となり、「沈む」という単語と相まって雰囲気がどんどん重くなっていく。
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
妹が死に際に欲するつめたいあめゆきを求めているという状況も重なり、詩の序盤のトーンはとても暗い。「陰惨な雲」「くらいみぞれ」などが拍車をかける。
しかし二度目のみぞれの描写のすぐ後から「ああとし子」という呼びかけになり、雪を取ってきてほしいと賢治にお願いした妹の優しさへと描写の中心が移る。
それに伴ってみぞれの描写は「みぞれはさびしくたまっている」となり陰鬱さは消え、以降「びちょびちょ」は登場しない。
同じものがただ「雪」と呼ばれ、「この雪はどこをえらぼうにも あんまりどこもまっしろなのだ」とみぞれではなくなるとともに水っぽさが消え、
「うつくしい雪」として褒められ、
「天上のアイスクリーム」として祈りをささげる対象にまで変化する。
認識の変化が心情の変化を生む
契機になるのは、死ぬ間際の妹が賢治に雪を取ってくるようにおねだりしたのは、賢治の「いっしょうをあかるくするために」「けなげにたのんだ」のだと気づいたことだ。
(前述の「ああとし子」以降)
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
兄がこれから一人でも「妹のおねだりをきいてやった」優しい思い出を抱えて生きていくことができるようにか、それがきれいな雪であることから兄の心持ちを明るくしようとしたのか。
おねだりを叶えようと奮闘しているうちに賢治がその依頼をどちらかのように捉え直し、「妹のけなげさ、他者への献身、兄への思いやり」に気が付いた、という大きな動きがここにある。
それが「わたしのすべてのさいわいをかけてねがう」というラストにつながり、有名な祈りの詩となっている。
つまり宮沢賢治は、詩の序盤で二回みぞれに対して「びちょびちょ」という濁音始まりで印象の悪いオノマトペを繰り返し使うことで、水分交じりの雪に嫌悪感を示していたが、認識の変化と共にそのオノマトペを途中で捨て去ることによってイメージを変え、「天上のアイスクリーム」とまで詩の中で昇華させることに成功していると言える。
この詩が実体験に基づいていると考えると、みぞれは、降った後で綺麗な雪になることはない。短い時間で新しい雪が降ってきたとも考えにくい。
つまりこれは純粋に捉え方の問題であり、「妹が兄の未来を明るくするために求めたのかもしれない雪」だと捉え直すことで、対象が一気に好ましく見えたという現象である。対象そのものに変化はない。
「びちょびちょ」というオノマトペが効果的に用いられていて、このオノマトペがないと成立しない詩である。
オノマトペの効用
このように宮沢賢治は、自分の心情を詩に盛り込む時にオノマトペの印象をうまく用いて、よくない対象だと思っていたものをよいものだと捉え直すさまを読者に自然に読ませていた。
繰り返し「びちょびちょ」というオノマトペを用いて悪印象を与えていた対象を、そのオノマトペを外すことで、生まれ変わらせていると言える。
詩に使うには意外にも思えるような印象の(あまり良くない)オノマトペを繰り返し用い、途中から用いるのをやめる技法によって、更に詩情を高めた例となった。
宮沢賢治ほんといいよね。
最近カネコアヤノ聴いても米津玄師聴いても羊文学聴いても「みんな宮沢賢治好きだなぁ〜」って思う。あ、クラムボンももちろん。
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