最近、同じ人の本をよく読んでいて、いつものようにメモ代わり読了ツイートをしているので、エゴサしているらしいご本人にも飽きられているのではないかと思ってしまう。
今日は共著を読みました。
植本さんの『降伏の記録』だったか、「文体が石田さん譲り」だという記述があったので気になって。
さて、ここは私の日記ですが、力が抜けています。構成を考えて、みたいなことをしようとするといやになってしまう。
しかし私は秋と冬と春が苦手で不調なので、今が一番元気です。梅雨前、梅雨の晴れ間、暑すぎない初夏、くらいまで。
日記をよく書いている人は、よくそんなに書くことがあるなぁと感心しているのだけれど、あれは多分その人に「切り取る力」があるんだと思う。
切り取る力=オリジナリティである、と私は思う。
その人の物を見る目が、話の運び方が、イコールあらゆる「世界の切り取り方」が特異なのだ。特異というと言い過ぎかもしれないけど、それが個性っていうものなんだろうと思っている。
個性的っていうのは、変わっているとかじゃないんだよ、変なことがためらいなくできるとかじゃないんだよ、人と違うことを並べ立てるんじゃないんだ感受性と表現力なんだよ。
ということに私は、軽めの婚活をしていた頃に気が付いた。2020年10月のメモに「オリジナリティがあってくれ!」とだいぶ強めの筆圧で書いてある。辛そうであるが学びを得ていてえらい。婚活はやめた。
それ以来、好みのタイプを聞かれたら「オリジナリティがある人」と答えるようにしているが(あと二つは「殴らない人」と「私より健康な人」です)、けっこうびっくりされるか、「オリジナリティ、あるよ!」と単著を見せられたりする。
そうじゃない。
そうじゃないんだ分かれ。
ということで、そもそも論ブログの記事も、たくさん読んでほしいと思ったら切り口が特異でないと、上位表示はされないのだと思う。頼みますグーグルさん。え、日記書いてる場合じゃない。
最近人と話していて、人に話したいなぁと思っていたことって意外にその場では出てこないものなんだなぁと思った。つまり「最近あったこと」や「最近ハマっている」ことを話すのって、実は難易度高くないですかと思ったんです。
いや、その日あれしたこれした、みたいな話ならいくらでもできるけどさ、そんなの話してても面白くないじゃん。
あと、なんかフワちゃんが言っていたらしいんだけど、誰にでも何でも話せるわけじゃないやん。
だからこそ、友達だと思っているからこそ軽いだけの話をしたくない謎な気持ちもある。が、いかんせんネタがない。
なんだ私にも個性なんてないんだ…さっきは怒ってごめんね。
