今回の記事は、あざなえるなわのごとし の管理人さんから寄稿していただきました!
あざなわさんですよ、あざなわさん。Twitterでお声がけいただいた時はビビったものですが、私が『初恋のきた道』が好きなことをご存知で、こうやって書いてくれました。
※以下、あざなわさんの文章です。太字部分はあらすじ。
初恋のきた道
雪の残る道路を走る一台の車。
>> 父が突然 死んだ <<
知らせを受けた息子は故郷・三合屯村への帰路を急ぐ。
帰ってみれば、父の死に打ちひしがれ、教師だった父が教壇に立った学校の前から離れようとしない母の姿。
息子は、母を家へ連れ帰り冷え切った体を温めてやる。
病院の霊安室にある父の遺体を担ぎ持ち帰りたいと言う母。
路を辿れば家路が見えるという地元の風習。 しかしそれには人手が必要になる。
監督チェン・カイコーは「さらばわが愛、覇王別姫」「無極PROMISE」に見られるように、艶やかに色彩を使います。
しかしこの映画「初恋のきた道」では、モノクロの映像から始まります。
息子役は、スン・ホンレイ。ジョニー・トー監督作品「ドラッグ・ウォー 毒戦」では、中国公安警察の刑事を演じていました。
母が若かったころ。 父と初めて出会った。
村で学校を作ることになり、そこへ都市から教師としてやって来た父。 そんな父に惹かれた母。
しかし話しかけることもできず、学校の建設中、村の皆が饗する昼食に、自分の手作りの弁当を混ぜ、食べてくれないかと期待し、水くみに行くにもあえて遠回りで父のいる学校の近くの井戸へと通う。
そんな思いは徐々に通じ、やがて父は母の家へと赴く。
母の若いころを演じるのがこの作品でデビューしたチャン・ツィー。
ちょっと榮倉奈々に似てる。
さて、この回想シーンから画面がカラーになります。 季節は春ごろか。
三合屯村は、牧羊と織物が産業、米ではなく粉食。 ですからお焼きや餃子などが出てくる。
中に包む肉も豚や牛ではなく羊でしょうか。時代は1958年ごろだそうです。
父は母に髪飾りを与える。 母がいつも着る赤い服に似合うように。
惹かれあう二人。 まだ自由恋愛が珍しい時代。 だが三合屯にすら政治はやってくる。
父は都市へと呼びもどされる。
馬車に乗せられ連れられる父。 作った弁当を食べて欲しくて、追いかける母。
しかしその想いは叶わなかった。「 必ず帰ってくる」そう言い残した父の言葉を信じて、母は待つ。
村人が父を指して「右派らしい」と言う場面がある。
中国共産党の「反右派闘争」が始まっていますから、都市の共産党が話を聞くから(尋問するから)父に戻れと言うことになった、のでしょう。
そして都市に帰った父は軟禁状態。 三合屯村に戻ることが出来ない。 母に約束した期限も守れない。
二人の仲を裂くのは人ではなくて、政府と思想なわけです。
「冬には帰ってくる」と言う言葉を信じて待つ母。 都市へと続く道に立ち続け、やがて熱を出し倒れてしまう。
気づくと村人が父親を呼びに都市にまで行き、父親が帰っている。
跳び起き、父に会いに行く母。
それ以降二人が離れることは無かった。
モノクロとカラーの反転
この映画は画面の色彩、そして季節でさまざまなことを描いています。
現代パート(父が死んだ時)と、過去パート(父と母の馴れ初め)という二つの時代。
通常なら時系列で、古い方がモノクロ、新しい方がカラーとなるのが自然でしょう。
けれどここでは現代パートがモノクロなのに対し、過去にカラーが使用されています。つまり時系列に対して反転している。 これはどうしてでしょうか。
過去パート(カラー)は、父と母が出会った春ごろに始まります。
そして夏が過ぎ、葉が黄色くなる秋の頃に父が都市へ連れ去られます。 冬に母が倒れ、父が帰ってくる。
鮮やかな四季を描くには、カラーが必要です。
春(二人が出会う)>夏(徐々に近づく)>秋(別れ)>冬(再会)
この映画の語り手は息子ですが、主観は母親にあります。
「生きる力に溢れていた、若かった頃の母が見た世界」を、この色彩で描いているわけです。
色鮮やかな母の赤い服と赤い布、入口に積み上がった黄色いカボチャ、緑生い茂る山々。 若く希望に満ち溢れ、淡い恋とさまざまな色と移ろう四季。
そして時がたち父が死に、母が一人残される。
現代パートでは、母が大好きだった父はもういません。ですから色彩はありません。
だから父が死んでしまった現代を描くのに、モノクロが使われます。 そして季節は、当然冬です。
都市と農村の、距離以上の遠さ
またこの映画は、都市と農村の恋愛物語でもあります。
語り手である息子は、農村で産まれました。
しかし都市から農村へ移った教師である父は、教育の大切さを知っていた。だから息子を都市へと行かせ、大学に通わせる。合格した息子は、さまざまな要件を満たして都市へと住んだことになります。
大人になった息子が戻った村の風景と、母の思い出の中の村はさほど変わらない。
時間が流れ、若かった母が年老い、都市は発展しても、農村の風景は変わらない。 中国の発展から取り残された村。
この映画は単なる「感動」の恋愛作品として鑑賞できますが、それと同時に中国が行った政策の影響や歴史も、さまざまな場所にちりばめられています。
なぜ映画の舞台が1958年ごろなのか。 なぜ北方の村なのか。 なぜ父は都市部に呼び戻され、なぜ息子は都市から農村へ帰るのか。
中国がさまざまな動乱にあった時代。 北方の小さな村で時代の波に揉まれながらも、離れずに結びついた小さな恋の物語。
それがこの「初恋のきた道」という作品なんじゃないでしょうか。
この記事を書いた人の管理サイトはこちら→あざなえるなわのごとし
関連記事: