なぜ今『マークスの山』か
ことの発端は、こちらで『マークスの山』を読む会が発足されて
ツイキャスでelveさんに誘っていただいたので、私も読むことにしました!(仲間に入れてもらえて嬉しい!)
ていうか読んだことあった
『マークスの山』、ぜんぜん覚えてないけど、読んだことある気がしてきた…デジャヴを感じる…。そんなことある?って思うけどそういえば『私が殺した少女』らへんから直木賞作品をリアルタイムに近く読んでることがあるから、ありうる…。それか途中で挫折してる。
— きまや (@kimaya4125) 2020年10月17日
ところで、
「本を読む時に頭に浮かんでいるのは音声か、映像か」
と問われてもピンとこなかったものですが、今回、判明しました。
2割くらい映像に変換して読んでいると思われる。
なぜならこの『マークスの山』の
『鉄屑スクラップ山のてっぺんから変なことを叫んでくる色白で身軽な男の人が、豆腐屋』
を映像で覚えていて、あぁこれ読んだことある…と思い出したからです。
映像とまではいかなくて、イメージの欠片みたいなものだけど。
物語後半で主人公も同じシーンを思い出すので、さらに強くイメージが浮かんだんだろうなぁ、と。
夏の暑い日、荒川の町工場の廃品の山に立って、天に突き抜けるような笑い声を降らせたかと思うと、恐ろしい身軽さで廃品の山を飛び越え、駆け去ったその姿だけが、鮮明に蘇る。(p314)
私この身軽な人(水沢・かつての豆腐屋)が好きなので、けっこういいシーンだなぁ、と思ってしまいます。字面的にはあまり良くもないか…。
ネタバレ少ない感想
他に読まれた方々、色々と激おこでしたね…笑、笑い事ではないかもしれない。
その指摘たしかに!と思うことばかりだったので、そのあたり私は看過して、情緒のみで読み解いていこうかと目論みました。
この話は、水沢という一人の人間が
「どうしてもうまくいかないことがあって、うまくいかせるために頑張って試行錯誤したけど、そもそも情報も材料も間違っていて、方法も間違えて、どんどんどうしようもなくなっていく」
話でした。
例えば設定としての「明るい山と暗い山が交互に訪れる」ところ。
精神疾患のある水沢なので、これは躁鬱の描写ではあるんですが、「今はうまくいっているけどこの後に絶対なにか嫌なことになる」って分かっていたら、水沢じゃなくても普通にすごいキツイよなぁ、と。
こういうキツさは、少なくない人たちが今まさに抱えているものではないか。
今は明るいけど、数か月後には暗くなってしまう。体は動かず、幻聴だけが響いて、何もできなくなってしまう。
そういう焦燥を抱えているところ、刑務所で、表面上は暇しながら、肉体には屈辱を与えられながら、聞いたのが「悪事で大金を得て世界がバラ色に見えた」犯罪者の妄執。
最初は
福沢諭吉の絵のついたあの紙切れが、大の男ひとり狂わすというのは、どう考えても眉唾に違いない。
と、お金に囚われていなかった水沢だけど、続いて
だが、男が見た狂喜の世界は、自分が明るい山にいるときの世界とひどく似ている。今はすでに翳り始めているあの世界に。 (P70)
と思ってしまうんですよね。それが
うちのめされる前に走り出すのだ。たとえ十日でも二十日でも長く、明るい日差しを浴びていたいからな。(P71)
という決意につながってしまう。
水沢に犯罪計画を思い付かせたきっかけは、出口のない恐怖から逃れたいという一心だけだった。
今、翳り始めている世界がこわい。
ただそこで、通りすがりの犯罪者が「そこらじゅうの色が眩しくめくるめき」という表現を使ったばかりに、犯罪に惹かれていってしまう。
色のある方、暗くない黒くない方へ、というだけで。
日差しを浴びていたい、というだけで。
その方向には根拠がないのに、気づけない。
だって他に手掛かりがないから。
水沢の頭の中には、幻聴である「マークス」がいる。たまにどちらがどちらか分からなくなる。
マークスと一体になって自分の罪を反芻していると
マークスは数秒、暗くも明るくもない、穏やかな色のついた世界を見ていた。あるいは、見たような気がしただけかもしれないが、ひょっとして、これこそがほんとうの世界だったら……。(P141)
とも思い至るんですよね。
一体になってフラットに世の中を見ることが、一度はできている。しかし信じ難い。そしてこれは夢の中で考えたことで、本人は自覚が薄い。
そしてこのあたりから、だいぶマークスがヤバい。どんどん人を殺していく。
水沢は達観したように、けれど希望を持って(計画が成功すれば、明るい山になるかもしれないから)、女に夢を語る。
女は呼応する。
「私もよ。もう充分光は見えるけど、山の上に立ったら、もっと明るい世界が見えるような気がする」(P230)
この女がかなり手に負えない感じで、いや本人に悪気はないんだろうけど、なんだかなぁ…。
誰からも止めてもらえない水沢、 脅迫をし続け、お金を取りに行く。けど、別にぜんぜんお金なんてほしくないんだ。
ただ、金を手にした男が狂喜する話に惹かれただけだ。金を手にした瞬間、あの明るい山そっくりの、嬉々とした世界が訪れるならば、と。(P244)
このあたり水沢は、なんか価値あるっぽいし俺の女のために金いっぱい持って帰ろうかな、くらいのノリでしかない。
だって持っている事実は一つしかないから。
自分は、一人の女に好かれている。自分も好きだ。信じられないような、たった一つの事実。(P252)
そして、対するエリート集団がいけすかないやつらで悪い人なんだけど、ちょっと賢いので、少しだけ金をくれる。
その悲劇の原因を持って、水沢は帰る。
そして悲劇が起こって、何も考えられない一人ぼっちになって、気が付く。
真知子が逝ってしまったあとの世界はずっとこんなふうなのだろうと考えた。世界についていた色やリズムや匂いは、真知子から滲み出していたものだったのだ。真知子のガスの光。(P340)
水沢がほしかったのは、色と光。せかいの。
水沢に必要だったのは、自分を気にかけてくれる人、愛し愛されうる対象、それだけだったのではないか。
※ここで少し注釈したいのですが、私が言いたいのは「『恋人(概念)』さえいれば良い」という思想ではなく、「他人と気にかけ合うことの重要さ」や広範囲の愛情について、具体例として一定の知識があれば、水沢の世界には色がついたんじゃないか、ということです。
だってこの女は女で色々とアレで、水沢にとってはインプリンティング的な巻き込まれ感があり、水沢の選択ではない。選択肢はなかった。
それを問答無用で良いとはできないし、この女が一人いたところで限界がある。水沢に必要なのはもっと包括的な「何か」。または、執着する対象が山だとデカすぎるので植物愛とかでいいんだけど…。
気にかけ合える存在と関係を作っていくこと。
それには、むしろ犯罪は不要だったのではないか。
…そりゃそうだ。
けれど水沢はそれを知らない。
途中で自身も言っているけれど、水沢はあまり頭が働かない。
それはほとんど病気のせいであり、その病気は遺伝で、なおかつ無理心中による後遺症でもある。
ああ、俺は細かいことを考えられる頭が欲しかった……。 (P256)
このアホっぽい独白が悲しい。
しかしここで足りていないのは、水沢の論理力ではなく、正しい情報です。あと水沢の健康のための療養。
時間の流れを考えたら、それは教育なのかもしれない…。包括的な何か。
最初のページで山の中を朦朧と歩いていた10歳の少年に、誰もそれからの生き方を示唆できていない。
10代後半、最初に人を殺しても、病院が醜聞として揉み消した。
20代半ば、水沢の頭がはっきりしている時に話をしてくれたのは、犯罪者だけだった。女は水沢の服役中、せっせと面会に行くべきでしたね…。
世の中の誰一人として、まともに水沢に働きかけていない。里親も。
最初の方に
この話は、水沢という一人の人間が
「どうしてもうまくいかないことがあって、うまくいかせるために頑張って試行錯誤したけど、そもそも情報も材料も間違っていて、方法も間違えて、どんどんどうしようもなくなっていく」
話でした。
と書いたのは、こういうことを考えたからでした。私はこの流れが一番、心にキた。
情報も材料も間違っていたら、本人にはどうしようもないじゃないか。
この小説は、教育と情緒が、世の中の「事なかれ主義」に負けっぱなしになる話です。
え、これでいいの?なんか駄目じゃない?でも俺/私には決定権がないから…で多くの人が見過ごし続けたことが、人を一人完全に駄目になるまで追い込んで、たくさんの人が殺されてしまうほど世の中すべてが堕ちてしまう話。
(もとになる犯罪はもっと以前に発生していたので、そこにも闇はあるけど、水沢がそれに寄って行ったことは偶然でしかない)
ちゃんと最後の方で女が言ってる。
「私たちは間違ったのです。(中略)私たちはもっとやることがあった。あの子をほんとうに救う努力をするべきだった」(P354)
そしてこのセリフが、水沢を捕まえられない刑事の胸にも刺さる。
少年時に保護され、病院で監督され、こないだまで刑務所に入っていた水沢が、罪を犯してまだ逃げるのであれば、
それは保護した機関も病院も刑務所も、刑事たちも誰一人「水沢の心身の危機を見抜けなかった(P354)」ということだから。
見過ごし続けた結果、犯罪が生まれたということだから。
だから捕まえに行く。山へ。
そういうラストにつながります。
みなさんの感想も
他の方々の感想はこちら!(ネタバレあり、それぞれ激おこ)
映像化についてはマリさん!